2025/10/09 木曜日
家事して実家へ
父はもうあまり食べれないので、外食もしづらい。
入院している間に母を外食へ連れて行く
今日は懐石ランチ 樹庵
写真の順番はバラバラ
舞茸とごま豆腐の揚げ出し

おつくり

サンマの土鍋たきこみごはん

おさかな

茶碗蒸し。

あんまりよく知らなかった母の幼少期の話を聞いた。
祖母は9人兄弟の末っ子でそこそこ裕福な家の出だったそう。
母は3人兄弟。3つ上の兄と生後すぐ亡くなってしまったもう一人の兄。
祖父は銀行員でウハウハな生活なハズだった。
しかし、戦争で大きく変わってしまった。
母は終戦間近の昭和20年4月生まれ
祖父は戦争で亡くなってしまい、祖母は満州からこども2人を連れて帰ってきた。
連れて帰れず満州に置き去りになる子も多かったそうだ。
生後数カ月の乳児と3歳のこどもを連れて大変だったのではないか。
引き上げてきた祖母たちはとても貧しい生活を送っていたと
川辺のバラック小屋みたいなちっさな家に高校卒業まで住んでいた。
箱入りで働き方を知らない祖母は人の畑の手伝いをして日雇いみたいな仕事の形態だった。
まだ恩給の配布はなく、戦争未亡人は大変だった。実家の援助も受ける余裕はなかったそう。
自分の家の畑の管理はこどもたちに任せていて、帰ってきたら兄弟で草取りをするよう言われていたが、兄は妹に押し付けてすぐどこかへ行ってしまっていた。母は怒られるのが嫌でモヤモヤしながら草取りしていた。
小学校は遠く、数km徒歩で通っていた。バス会社に勤めている近所のおじさんが、朝イチ回送のバスで送ってくれることがあってうれしかったそう。
中学校は5km先まで1時間以上歩いて通っていた。
高校は低収入のため学費免除、奨学金を得て通っていた。これまた6kmと遠かったが、バスで通えた。
しかし、ずっとバスが繋がっているわけではなく、片道2kmちょっと歩かないといけなかった。
部活なんて考えもしなかったと言っていた。
高校を出て、安定した仕事に就きたかった母は市役所を受けたが、当時は縁故が重要視されていてとても受からなかったと話している。悔しかったので、保母になり、市の職員で採用されたと言っていた。
兄は集団就職で名古屋に行った
働き出して、母たちは叔父の土地を借りてそこに2Kの小さな家(それでも今までの家より大きい)を建て移り住んだ。
その後母はお見合いで父と出会い結婚。
自分を含め3人の子を授かった。育児のため退職して子育てしてたときが一番幸せだったと話していた。
自分が生まれてまもなく父が勤めていた会社が倒産した。
製紙工場に勤めていたが、ちょうど日米為替が1ドル360円固定制から変動為替相場に移行し、その煽りで倒産したと聞いた。父は高校卒業時にちょうど製紙工場が地元に作られることになり就職した。
父は高校時代ラグビーをしていて、南日本大会に出場(鹿児島代表と宮崎代表で決戦)、勝てばインターハイというところだったが、就職を希望していたNTT(当時は電電公社?)の試験日が試合と重なってしまい受験できなかった。
しかも負けたらしい。
それで製紙工場を受けることになった。製紙工場は当時はけっこう花形だったみたいで、知り合いのお父さんも製紙工場にいた人は多かった。
それから父は職を転々とすることになり、母も働くようになった。
そういう中で育ったので自分の中では共働きは当然という感覚だった。
おかげで父はボイラー整備、電気工事、2級建築士、宅建、大型自動車、測量士補などライセンスをたくさんもっていた。しかも全部独学。それなりに賢い人だったのかもしれない。
ちなみにうちは5人家族で全員が同じ中学校、同じ高校の卒業。母以外は小中高同じ。
母も父も大学に行きたかったけど家庭事情で望めなかったので、自分たちには大学に行くよう勧めてくれたし、教育には力を入れてくれた。苦労をしたので、国家資格のある職や公務員になってほしいと言われていた。
なんてちょっと重たい話を聞いた。
父の話も聞いてみたいが、もうそんな元気はないかも。耳遠いし。
幼少期はカタツムリを食べてたとか、畑に迷い込んだ天然記念物のツ◯をたべたこともあるとかは聞いたが。
父は今日は先週よりシュッとむくみがとれていた。
でも元気はあまりない。とりあえず見舞いに付き合うだけでも母は気が楽だと言ってくれるのでできるだけ親孝行しておこう。
帰ってむすこKの⚽️スクール
あいかわらず日常生活ができずまたキレてしまった。毎週そう。
スクールでは楽しそうだった。